駄文をつらねるウェブログ

駄文・乱文・残滓

落胆の表情

「もう、いいよ」

と彼は、口早に説明していた僕に向かって言い放った。低く穏やかな声だったが、彼の落胆が伝わってきた。

忙しく動いていた僕の口は、途端に力が抜けて、声はか細くなって、沈黙の中に消えた。


私にとって誰かの期待に応えることは、さまざまな行動において比重が高い。期待されれば、されるほど取り組みに精を出す。一方で、期待されなければ(期待が目に見えなければ)、ほとんど何もしない。この一年で、注意深く自分を観察して、学んだことだ。

この性質は、私の人生を考える上で、重大な問題を抱えている。自分ではなく、「他人」が重要な位置にいることだ。自分の中から、沸き立つものにしたがって行動できないかぎり、行動は後手後手にまわってしまう。さらに、他人の行動に一喜一憂することになって、ストレスが溜まりやすい。

つい最近、東京郊外の天光寺という場所で、真言宗の修行(お百度参り、滝行)を体験してきた。そこで、住職は「人生の「主人公」になれ」と諭してくれた。他人ではなく、自分を制して自分の人生を歩めと。

冒頭の彼はたしかに落胆したかもしれない。でもそれは私とは無関係で、「ただ単に、彼が落胆した」という事実でしかない。私はそのときの全力を出し切った。もちろん未熟な点があったかもしれないが、それが最善だったのだ。

彼が落胆した瞬間「私が彼を落胆させた」という罪悪感と悔しさでいっぱいになった。しかし、家に帰って考えてみると、「彼が落胆した」だけで、私はどうしようもなかったことに気づいた。住職の法話によって気づけたのかもしれない。そうだとしたら、修行は無駄になっていないな。

罪悪感も悔しさも抱く必要はない。ただ、何か思うことがあったのなら、改善するためにどうしたら良いのか冷静に考えることが、成長への一歩なのだろう。

私が一番、どんな他人よりも変えやすい存在なのだから。