駄文をつらねるウェブログ

駄文・乱文・残滓

東京へ

ついに東京へ来た。まだ、田舎から東京へ出てきたという実感が湧かない。

年を取ったせいか、ここ一年で少し達観したせいか、「節目」を感じなくなった。さすがに修了式では、その式典の効果もあって「ああ、終わったな」と区切りを身体で感じることができた。

田舎を離れるときや、長年過ごしたコミュニティから離れるときは、どうも「自分は明日もここにいるんじゃないか」という気がしてならない。実感がない。そうした瞬間、区切りというのは誰かが決めたものではなく、常に流れる時間に意識的に印をつけているだけなんだなぁと思う。

人類の偉大な発明の一つである、締め切り。たとえば、誰かが決めた締め切りがあったとしても、関係者以外から見ればただの印に過ぎない。守る義理もないし、そもそも区切りとも思えないかもしれない。つまり、締め切りは個人的なもの。本人が締め切りと思わなければ、締め切りとして機能は働かない。逆に、締め切りと思えば、締め切りの恩恵を受けることができる(期日までに一定の成果を残す)。

区切りをつける、締め切りを決めるというのは単純な行為であること。流れていく時間の中で、「この日、この土地を離れるんだ」と区切りを感じるか感じないか。事実として、土地を離れるにしても、区切りを感じるか感じないかは別だ。

これまで、時間は客観的なものと思っていたが、時間によって起こる事象に着目すると、まだまだ主観なのだなと感じた。そして、主観によって設定される区切りの効果を認識した。