誰のための言葉か
「これ、どうやればいいの?」
さっきまでコンピュータにかじりついて、うんうんと唸っていた友人が声を上げる。隣で座って作業していた私は、ついつい呼びかけに反応する。席を立ち上がって、友人のコンピュータがよく見える位置に移動する。
「これはこうすると、できるよ」と、簡単に説明する。
「おお、さっすが。」
友人は、よほど感動したのか、Ctrl-Zを押して操作を元に戻した上で、何度も教えた操作を繰り返す。友人があまりにも楽しげだったから、私はそこで調子に乗る。
「ちなみに……」
私は最近知った便利な技を披露した。友人は私が披露するたびに、ふむふむと頷いていた。
「……。ここをこうするとこういうふうできるよ」
私が一通り説明を終えて、友人の顔をチラッと見る。あれ?楽しげだった友人はそこにはいなかった。表情こそ楽しげに見えたが、そろそろ返してくれよと言いたげな雰囲気が漏れ出ている。
私は妙に決まりが悪くて、一番最初に教えた操作を今一度復習させて、隣の席で作業に戻った。
言葉というのは、一方的な行為ではなく、話し手と聞き手が一体となった相互行為であると指摘されている。一方的に言葉を紡ぐときは、教師と生徒の関係のように少々弾圧的になってしまう。教師に面と向かって反論できる人は多くはないだろう。
その格差は、特に他者から質問されたときは顕著になる。答えを知っている者と答えを知らない者という立場が二人の間で確立される。すると、知っている者はより"知っているような振る舞い"をし、知らない物はより"知らないような振る舞い"をする。立場が上なら、振る舞いは増長し、立場が下なら、振る舞いは抑圧される。
質問された者は、最初こそ質問者のために知識や技法を伝えるが、徐々に話したいことを話すようになる。それに対応して、質問者は聞くに徹する。徐々に格差が開いていく。
私は質問されることが多く、質問者のために精一杯の回答をしていたつもりだったが、質問者の表情を見てこのことに気づいた。今思えば、「しゃべりすぎた」と後悔したことが何度もあった。
「しゃべりすぎる」典型例は、自分の好きな話題を話すときだろう。雑談のときであればなんの問題もないだろうが、いつも「しゃべりすぎる」ようではいけない。「聞かれた内容に過不足なく正確に応える」ことが重要だ。
自分が知っているからと言って話し込むのはいけない。話す側も聞く側も得をしない(終わりどきがわからなくなって、微妙な空気になるだけだ)。
そこで「誰のための言葉か」と、言葉を発する前に自問することで、語りたいという欲求に抗えるはずだ。ペラペラと喋るよりも、しっかりと黙ってときにはしっかりとしゃべるようなメリハリがついていたほうが時間も節約できる。