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現実を見る

雑記

ここ数ヶ月で現実を楽観視するようになり、現実を直視できるようになった。締切日は変更できないし、何日間も徹夜で高パフォーマンスで働くことはできない。そういう制約をようやく身を持って知った。これまでは、「本気を出せばできる!」と意味不明で根拠の無い根性論を振り回していたけれども、今は「現実解を考えるんだ」「合理的に考えるんだ」が口癖になった。その過程で、感情が邪魔だと思うようになった。

感情が邪魔ということはいろいろ考えるところがあるが、鬱病の患者は自分を冷静に客観視できているという。鬱ではない人たちは、現状を楽観視しているという報告がある。つまり、感情は明日を生きる希望なんだと捉えるとさほど感情は忌避するべきではないのかもしれない。

合理性について

何か遂行するためには、相応の犠牲が必要だ。たとえば、めんどうがられても、迷惑をかけても人に声を無理やりにでもかけて動いてもらうこと。「相手に迷惑をかけるのは……」と優等生みたいなことを言っていても、人は動いてくれない。相手が大変そうでも、無理にでも声をかけなければ、誰も助けてくれない。迷惑だとわかっていても、「助けてください」と声をだすことが重要だと思った。

自分のリソースが足りないなら、「本気を出す」「徹夜する」のではなく、他人というリソースを使うしかない。幸い私は日頃、誰かの手伝いをしてきた。ときには本人以上に真剣に取り組んだことさえある。こう記述すると非常に最悪な印象を抱くだろうが、手伝っていたという功績を盾にして多くの人に助けてもらった。

また、狡い行いも多々した。立場上、断りづらい人にお願いをしたりした。相手が手伝いたくないニュアンスで断っていたとしても、文面どおりに受け取って、再びお願いをしたりした。「興味はあるけど、今時間ないのでまたの機会に」と言われたので、2週間くらい日を開けてからお願いした。普段の私なら、絶対にやらない行為だった。

血眼になって、今回動いてみて、自分という存在を見なおした。普段しない行動を多くしていたので、普段の自分がどのような行為をしているのかよく勉強になった。

独立である他者

こうして一生懸命に行動して思ったのが、私の事情は私の事情であって、他者には本質的に関係がないということだった。他者が「手伝おうか」と申し出てくる場面はほぼ無かった。まったくないことが悪いと言いたいわけじゃない。私なら、大変そうにしている人に「手伝おうか」と思わず声をかけてしまう。ただ、そこに私と他者のギャップを感じた。

この経験を踏まえて思ったのは、他者に割り振れるタスクと自分でしかできないタスクを明確に分けておくことは重要だ。分析は自分でしかできないが、グラフ作成や数値データの整理などは他者に頼めた。タスクの消化が苦手な私は、不幸にもグラフ作成を先にこなしてしまっていたために、何も他者にタスクをお願いすることができなかった。

客観視

状況を客観視できていれば、グラフ作成を先にこなしたりするようなことはなかった。私というアドバイザーが私の側にいてくれたら、そのようなミスは侵さなかった。人はどうして自分を客観視することが苦手なのだろう。

やってしまったこと

今までの自分ではやらなかったことをやってしまった。

  • 自分の利益のために、他者をリソースとしてみなした
  • 他人が大変そうでも、まったくの無視を決め込んだこと(自分のリソースを他者に割かなかった)

何か物事を達成するためには、これくらいのことは普通かもしれないと少し思う。

変わらなかったこと

いつもどおり細部にばかりこだわりだして、時間をたくさん消費した。自動化するためにたくさんの時間を費やした。費用対効果が悪かった。しかも、自動化した対象が間違いを含んでいて悲惨な結果となった。十分にテストされていない対象を自動化すると損害が大きい。テストの重要性を再認識した。

結果

このようなことを意識して行動した結果はとても良好だった。いつものように、情けない成果を残すわけではなく、そこそこの成果を残せた。多くのことをやろうとしてしまったために、散漫な結果になってしまったが、概ね良かった。

去年気づいたことだが、私は他人にリソースを割きすぎている。そして、他人のリソースを使わなすぎる。それを身を持って体験できたことはこれからの成長に向けて良いことだったと思っている。

が、今までの自分が「他者をリソースとして見るな」とか思っている。

今日やったこと