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人生は苦しみか、楽しみか。人生の変質

人生をゲームとして捉えてみようかと思った。

『暗い部屋』というノベルゲームで、従兄のお兄さんが世間慣れしていない主人公に、質問を頻繁に投げかける。主人公はその質問に丁寧に答えるのだけど、お兄さんは「そんなに真面目に答えなくていいぜ」と主人公を窘(たしな)める。適当でいいのだ、全部語る必要はないのだと処世術を優しく教えてくれる。

彼らのやりとりを見て、世の中は案外適当なものなのかと妙に納得してしまった。彼は飄々としていて、いかにも世渡りが巧そうにみえる。その気楽そうな姿に私は憧れを抱いた。

私の周りにもそういう人がいる。その人は「がんばっているように見せずに、いい感じの成果を残す」という信条を持っていた。私からその人を見たら、あまりがんばっていないように見えて、それなりの成果を残していたのだから、その人の方策は成功していたと言えよう。

一方、私はどうか。信条なんて「誰かを幸せにしたい」程度にしか持っていないし、端から見たら「がんばっているように見せて、がんばっていない」という表現が当てはまるかもしれない。さらに、自虐するように掘り下げれば「がんばっているから許して!」とか「こんなに私はがんばっているの!」と何の特にもならないアピールをしていることになる。

がんばっていることの方向性が合っている分にはまだいいのだけれど、優先度や重要度が無視されていたら、目が当てられない。厳しい人なら「そのがんばりに意味はない」と一蹴してくれるだろうが気が小さい人ならそれができないと思う。あの人はあの人なりにがんばっているんだから厳しいことは言えない、と萎縮してしまうだろう。

当然このようなやり方(処世)は成長の真逆を行く。がんばっている振りとそれを容認することは、実の無い慣れ合いを招き、組織を崩壊させる。

気づいたからには、処世の仕方を変えなければならない。悪意は排除しなければならない。そこで、こう考えてみた。

「こんなに私はがんばっているの」というアピールは他者に対して行われる。アピールを解剖すれば「こんなに私は(あなたのために・組織のために)がんばっているの」という暗黙の恩着せがましさが堂々と居座っている。気が小さい人は、この恩着せがましさに耐え切れないため、過ちを指摘できない。

恩着せがましいアピールというのは、他者や組織への貢献とそれに対する自分の我慢から生み出されると考えられる。詰まるところ、他者本位・他者依存なのだ。自分という軸を備えなくてもいい分、責任はあまりないので、とても気楽なものだ。

しかし、誰かを手助けできているのだから他者本位でもいいじゃないか、自分を差し置いて他人を助けるなんて献身的じゃないか、と思う人も多いかもしれない。私もその内の一人だった。

以前、とある企業の取締役から忠告を受けた。他人の幸せの前に自分が幸せにならないといけないのだ、と。的確な指摘だった。おそらく私の口ぶりから、自己犠牲の精神を読み取ったのだろう。何人もの人と似たような話をして、初めてそう言われたものだから、私はとても衝撃を受けた。衝撃は、自らの深くに鎮座した自己犠牲の精神に、私が気づくきっかけになった。

自覚してからも変わりのない生活を送っていた。「自分が我慢すれば、納期に余裕もできるし大丈夫」と他人の仕事に手を出したりした。手を出したくてウズウズした経験も数えきれない。自覚したところで何も変わらなかった。

ちなみに余談だが、欧米では他人の仕事を奪うことは許されないらしい。どこかの本で読んだ覚えがある。

中途半端なおせっかいは、他者にとっても自分にとっても良くない。他人が良ければ自分はどうでも良いという思想は退廃を招く。自分は他人の案件だからといって軽率なアドバイスをして、他人はそれを信じる。他人が失敗しても他人のせい。他人が成功したら、自分のおかげ。この非対称な構図は詳説しなくても明らかにおかしい。

「わたしはこんなにがんばっているのに」という意味不明な叫びは、中途半端なおせっかいの積み重ねから生み出される。この甘えた構図から脱しなければいけない。

そのためには、他者本位・他者中心の世界から独り立ちしなければならない。裏を返せば、他人に対して残酷になることにも繋がる。助けることを断る・自分を優先することになるのだから。

少し前に『嫌われる勇気』という本が売れていたが、こういうことを言っていたのではないだろうか。ちなみに私は読んでいない。『エッセンシャル思考』という本では似たようなことが書いてあった。これは読んだ。

冒頭の『暗い部屋』の例では、主人公が丁寧に質問に答えている。自分を深く顧みずに、喋っていいことと喋ってはいけないことを区別せずに、相手のために全力で答えてしまう。従兄のお兄さんは、他人本位のその姿勢を指摘したんだろう。つまり、他人本位じゃなくて自分という存在を早く確立させろと言いたかったんじゃないだろうか。

私のように、あまりにも他者に依りすぎている人は、早く独り立ちしなければならない。

他人を顧みず、どんなことが起こるかな?と観測者や傍観者を装って、相手と接することが必要なんだと思う。他人に迷惑をかけないことは社会で生きる上で重要だけれども、他人に迷惑かけながら生きることも重要なんだろう。

人生というものを、他者に迷惑をかけないように何も起こらないように願う狭苦しいものではなくて、

他者に迷惑をかけながら、何かを起こしてその状況を楽しむゲームのように捉えていきたいと、今私は考えている。