駄文をつらねるウェブログ

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依存する言葉

「お前、本当にそう思ってないだろ」と指摘を私は先輩から受けたことがあった。

もう詳しい内容は忘れてしまったけれども、先輩の話を聞いて「すごいですね! どれくらい時間かかったんですか?」と相槌を打ったあとに鋭い指摘が飛んできたのだった。

先輩は冗談めかした言葉と笑顔だったけれども、私は重傷を負った。別にうつ病とかになったわけではない。単純にその指摘が頭の中をずっとぐるぐると回るようになっただけだ。

指摘は明確だった。私の相槌や返答が心からの行為ではないせいだった。指摘されて初めて気づいたことだった。相槌を打つロボットに近い。

相手を気遣うあまり、相手が何を求めているか考えた末に、自らが感じた以上に大げさなリアクションを取るようになっていた。「すごい話」をしたら、驚く。「悲しい話」をしたら、悲しむ。それだけのことなのに、先輩の前では度を過ぎて大げさになってしまった。

「心のこもった言葉」とはなんだろう? たぶん先輩はそれを求めていた。

心のこもった言葉を。

私の心の言葉を。

閑話休題。会話っていうのは案外適当に返すだけでも、継続できる。うるさい環境で内容を十分に聞き取れなくても、表情と文脈で、へぇそうなんだ、大変だったねぇ、くらいは返せる。微妙な雰囲気になっても、「あ、そういえば」とでも言って思いついたように話題を変えればいい。

上記の方法を悪意のある対応、失礼な対応だと捉える人は多いと思う。でも、相手の話していることと自分の受け取ったことが大いにずれていることは日常茶飯事だ。

「昨日、友達が待ち合わせに遅刻してさー、でも手には紙袋持ってんの。」と話を聞いたとき、どう返すだろう?

「え? なんの紙袋?」と聞く人もいるだろうし、「待ちぼうけくらうとか最悪」と返す人もいるだろう。言葉だけ聞くとどっちとも返しとしてはありだと思う。たぶん話してくれた人は何かについて話をしたい、共有したいと思って話している。その何かは、紙袋なのか待ちぼうけの話なのか聞き手はわからない(ノンバーバルな部分でわかることはある)。つまり、適切な返答はその話をしてくれた人にしかわからないのだ。だから、さきほどの方法で見られる多少のずれは許容されるはずだ。

それに仕事上での会話以外であれば、内容理解以上に会話を続けることのほうが意義深い。聞き取れないからと言って何度も聞き直していると話が中断され、流れが止まる。これは想像に容易いだろう。

話を戻そう。

冒頭で挙げた「すごいですね!」という相槌には、自分の感想以上に、相手の話を促進する側面を含んでいる。推進剤とでもいえよう。そこには、「やれもっと話せ」という脅迫が存在する。自分のペースで気持よく歩いていたら、突然後ろから突き飛ばされるような不快感があったのではないかと考えている。相手のペースを考えずに、早ければいいだろうとおもいっきり加速させる。そこに胡散臭さを感じさせたんじゃないか。

つまり、心のこもった言葉というのは、相手と自分でつくり上げる言葉なのだろう。

自分の言いたいことを言うだけではなく、相手の言いたいことをまくし立てるのではなく、相手と自分ででしか成し得ない言葉を、会話をするという言葉、心のこもった言葉(会話)だと思う。

私は「おもしろい」という言葉をしょっちゅう使うけれども、これも上述したように非常に危険な言葉である。「おもしろい」と言っておけばなんとかなるだろうという投げやりさがあるからだ。

同様に、相手を褒めちぎるという事象においてもペースを考えなきゃいけない。ペースを考えない褒めは、不信感につながる。