駄文をつらねるウェブログ

駄文・乱文・残滓

クソい行動を分析し直す

「天才じゃん」「すごいじゃん」という言葉を日常で平然と僕は使っているけど、今あらためて、その言葉の意味を問い直したい。最低最悪な解釈を披露しよう。僕はまぁひねくれものなので、「すごいじゃん」という言葉は、自分を守るために使うことがある。目の前の人の功績を「すごい」と認めることで、自分と他人を分かつ。僕は頭が悪いので、「なぜ自分がそれをできなかったのか」と考えがちなので、それを回避している。すごい功績を残した人を認められる僕はすごいという、クソ論理。

「天才じゃん」なんて雑な言葉は本当にひどい。軽々しさしか感じさせない言葉。何を意味しているのかすら怪しい。語感だけで口にしている。「言葉は使えば使うほど、意味が薄くなる」なんて言葉があるように、多用すると本当に意味が希薄になる。僕の言葉は、うさんくさいという話をこれまでの人生で数人からされたことがある。一因は、良いことしか言わないからだろう。「褒めとけばいいや」という雑さが染み出しているのかもしれない。語彙が少ないのかもしれない。

最近、常に評価される側になってみて、自分がわからなくなってくる。僕が他人に対して、仕事を任せていいかどうかや、仲良くなりたいなんて思うのは、普段の言葉遣いや振る舞いに大きく依存すると考えている。それは、あたりまえのようにわかっていたつもりのことだったが、さて自分にも適用してみようかと考えた途端、寒気がした。

人間を評価すると同時に自分も評価されていることに気づいていなかった。この時点でだいぶ糞野郎だと思う。一度頼まれたが、するーしてしまったりして、どんどん頼まれなくなる。そういう循環が当たり前に起こる。そこに気付けていなかった。言動の雑さ、その場の切り返しのうまさが、少しずつ少しずつ蓄積されて、信頼になる。蓄積がなければ、信頼にはならない。たったそれだけのことに気づくのに24年かかった。

そこで、僕は僕で僕を見直すことをしてみようと思い立った。僕が心の底から、尊敬できる人はだれか?考えなおそうと思った。そして行動を模倣しようと思った。その人になることは絶対にできない。行動なら学べ、まねぶできることができるはずだ。

尊敬している人