駄文をつらねるウェブログ

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最善だったのだ

もやもやとした気持ちに包まれる。「これでよかったのだろうか」という問いが頭の中で反芻する。漫画のワンシーンのように、天使と悪魔が競り合いながら、私に囁く。天使は「もっとがんばればよかったのに」と私を責め、悪魔は「お前ががんばっても誰からも評価されない。だったら手を抜いたっていいじゃないか」と私に免罪符を渡す。

以下の自分で書いた記事を読み返したら、思いの外暗くて驚いた。そして語り足りていないという思いに苛まれたので続編を書こうと思った。それが本エントリーだ。

nokori.hateblo.jp

有終の美と悔しさ

有終の美を飾るという言葉があるが、私の残した成果はそれとはかけはなれたものになった。私の4年間の集大成はお世辞にも「良いもの」とは言えなかった。私自身の完成度を表すようにお粗末だった。

これを悔しいと思うか?以前の私なら「悔しい」と即答していた。今では違う。「なんともいえない」と返すだろう。「悔しい」と言うことさえ今の私は驕りではないかと思うのだ。Goo辞書によれば「悔しい」とは以下のように表されている。

物事が思うとおりにならなかったり、はずかしめを受けたりして、あきらめがつかず、腹立たしい気持ちだ。残念でたまらない。 後悔される。くやまれる。 くやしい【悔しい/口惜しい】の意味 - 国語辞書 - goo辞書

私は「悔しい」に対して、現実から目を背けているのではないかという印象を受けている。「思うとおり」になっていればもっと良くなっていたのだろうか?あのとき「ああしていれば」もっと良いものができたのだろうか?

私の目の前にある「結果」は自分の最善だったと今の私は考える。過去の私なら、決してそうは思いもしなかっただろう。過去の自分の行いに対して、「あれが悪かった」「これも悪かった」だの後悔というレッテルを貼る作業を繰り返していたに違いない。

最善だったんでしょう?

どんなイレギュラーがあったとしても、どんなにみすぼらしいものができたにしても、私はその場その場の最善を尽くした。そうじゃないか?たとえ、漫画を読んで浪費した時間があっても、蹲ってどうしても立ち上がれなくて何時間も無駄にしても、その時間と行為には意味があったんじゃないのか?私が次に立ち上がるために必要な時間と行為だったんじゃないのか?

今の私はそう捉えている。過去は変えられない。私が変えられるのは今だけだ。それなら、いま考え方を変えようじゃないか。だから、私は「私はそのときそのときの最善を尽くしたよ。そう胸を張ってもいいんじゃないかい?」と今の私は過去の私に伝えてあげたい。

作品を認めないことは〈私〉を認めないこと

あえて厳しいことを言えば、目の前にある結果を受け入れない限り、成長はない。目の前にいる成果物に対して「自分はこんな下手くそなもの作らない」といって著作権を放棄するのは根本的に間違っている。作品を認知しないことは、それを作った〈私〉をも認知しないことだと気づいてほしい。作品を媒介としてこんなの〈私〉ではないと言っているようなものだ。

認める

鏡に向かって「お前は誰だ?」と毎日言い続けると人格が崩壊するという都市伝説がある(日本人「鏡の中の自分に向かって『お前は誰だ』と聞き続けた結果www」→台湾人「怖すぎるwww」 | kaola.jp)。リンク先の記事は信ぴょう性がかなり低いが、私を私と認めないことは心的負荷がかなり高いことが予想される。自分を自分と認めない行為というのは、ただの自虐でしかない。自分を認めないことも、自分の作品を認めないことも、即刻辞めるべきだろう。逆に、鏡に向かって自分の本心を打ち明けて自分を認めるという試みをやっている人がいる(jmatsuzaki.com)。あなたは、自分自身を虐める必要はない。自分の無力さに悲しむ必要もない。自分ができないことを悩む必要もない。そんな自分を認めてあげようじゃないか。周りにいるのが敵ばかりなら、自分自身だけは味方にしよう。一番強力な味方は自分自身なのだから。

嗚咽と笑い

「今日もできなかった」と、自分自身を虐めたって嗚咽くらいしか出てこないだろう。「今日はこれができた」と笑い声を出したほうが心がすっきりするじゃないか。

24年

24年間生きてきてやっとここまでたどり着いた。まだ道は険しく長いが、こういった気付きが数えきれないくらい控えているだろう。それを思うと楽しみだ。できるだけたくさん見つけたい。