駄文をつらねるウェブログ

駄文・乱文・残滓

即時性

言葉は、発した瞬間に消えてしまう。

自分がどういう言葉を発したかなんて、すぐ忘れてしまう。だから文字として記録した。

でも、文字は窮屈。居酒屋で愚痴は言えるけども、LineやSkypeなどでは愚痴が言いづらい。

用事があって、その人に話しかけるために開いたチャットルームに愚痴が残っていた時の気分の悪さは、想像したくない。

なんでずっと残ってるの?と悲壮感を覚える。雑談なんて残らなくてもいいんだって。

文字ベースの情報伝達という意味でのコミュニケーションはとても効率的に進化してきた。

その一方で、雑談で私たちが何をしようとしているのかについてはほとんど明らかにされていない。雑談では、言外の情報をやりとりしている。言葉ではひどいことを言っていても、語調からその裏では恋人が好きだと言っていたり、ただただ共感してほしいために大げさなことを言っていたり。Twitterで炎上するようなことをやっている人たちはそうやって気を引こうとしている。もともと問題のある行為かもしれないが、ただ誰かとつながりたい。反応を得たいという人間の根源的欲求がそうさせているだけかもしれない。それを忘れちゃいけない。

心理学にはストロークという用語がある(子育て心理学:第4部 5)「ストローク飢餓」に陥った人は「ゲーム」を仕掛ける -あるがままの自分を取り戻す)。人から人への行動や言動のことをいう。ストロークが不足するときは、誰からも反応されず、人として扱われないときである。そのとき、ストロークを得るために相手に嫌がらせをする場合がある。

私たちが日常的なコミュニケーションをするときにも、ストロークを求めているという主張がある。その求め方は、大げさな物言いであったり、事実に尾ひれをつけたり、他者よりも自分を大きく見せようとする見栄を貼ることだったりする。これらの行いは、雑談において記録する必要があるのだろうか?私はそこに疑問を呈する。

とあるLineグループでは、「あああ」「あ」などの意味不明な文字列を投稿して、誰かから「短くなった」などの反応がかえってくるだけの楽しみ方をしている。「いいい」という返し方もあっただろう。この「短くなった」という発言によって、「あああ」「あ」という言葉が意味づけられたことにほかならない。雑談というのは、お互いがお互いの言葉を意味づけ合う。やりとりを続けることにこそ意味がある行為だ。

コミュニケーションというのは、もはや文字ベースでは測れない”何か”(ノンバーバルと呼ばれる)が議論される必要がある。