踏み台になりたいと願った
私は、踏み台になりたいと願った時期があった。誰かの支援したい、誰かの背中を後押ししたいと願った。ただ私は踏み台であればいいと、ときには踏み台にしてくれと口に出すこともあった。
そうして、願っても止まなかった踏み台になれたときには、虚しさを覚えるようになった。私という踏み台を乗り越えた人たちは、私の手の届かない領域に進んでいった。私はもう彼らの踏み台になれない。そう考えたとき、あることに気づいた。
踏み台となった私は何一つ成長できなかった。私はすでに手に入れていたものを周りに分け与えているだけだった。私を踏み台にしてくれた人たちは、見事に成長していった。そして、私はその人達の背中を見ることになった。
私は踏み台になったと同時に成長を放棄していたのだ。心のどこかに「ここまで成長したんだ、もういいだろう」という諦めがあったのだろう。周りに分け与えていた私の大切なものは、すっかり底をついた。またゼロから分け与えるものを集める作業が始まる。
だが、次は違う。分け与えるだけではなく、相手からも受け取るのだ。成長のきっかけを与える代わりに成長のきっかけを貰うのだ。誰かの支援をするには、自分も支援されなきゃいけない。誰かの成長を助けるには、自分も成長しなければならない。簡単な論理だ。
すべてを与えてあげる「いい人」で終わるわけにはいかない。