誰のために
「ちょっと見てもいーい?」
友人が作業をしているのを横目に見ていたら、やきもきしてしまった。
もっとこうすれば、もっと良くなるのに。このままでは良くない結果になる。そう直感的に悟った。
そして、手を貸す。いや、手を出す。
手を出すと、そこに夢中になって、自分のことのように編集し始める。
彼のための編集だったのに、自分のやきもちした気持ちを慰めるための編集という側面が帯びてくる。
当然、彼は手持ち無沙汰になる。
私の作業する様子を、彼は見ているけれども、編集する根拠や理由がわからず、ただ眺めているだけ。
私はそんな様子に、憤りを感じる。
彼のためにやっているのに、と。
その憤りは、彼にとってみれば理解不能。
彼が助けを求めたわけではないのに、横槍を入れられて作業が中断される。
もちろん手を入れる必要があるのはわかっているが、必要性を本質的に理解していない。
作業をすすめるにつれて、彼のためにやっているのか、私の気持ちを慰めるためにやっているのか、その境が曖昧になっていく。
悶々とする気持ちを抑えながら、編集し、出来上がった資料は上出来なものとなった。
彼は出来上がった資料を見てとても喜んで、大変感謝してくれた。
編集の軸(修正の軸)というのは、私の力不足のせいで、彼には伝わらなかった。
だから、彼の記憶をそのままにして、私が編集する前の資料と向かい合わせても、出来上がった資料とはかけ離れたものができるだろう。
資料という表層は、綺麗に仕上がった。
しかし、私が一部編集したために、彼の編集機会を奪い、彼の成長機会さえも奪ったのだ。
もはや、この時点で私のした行為というのは、自らの抱いたヤキモチした気持ちを鎮めるためだけに、彼の仕事を奪ったということだ。
発端は、「彼のために」という献身だった。結果は見ての通り、悲惨だ。こういうことをおせっかいという。
助け舟というのは、助けを求めている場合にしか出してはいけない。手を貸す人の心得だ。また、助けを求める人は、誰かもっと資料を改善できる人がいないか、目を凝らしておくことだ。助けがなければ、助け舟を出す人はいない。