駄文をつらねるウェブログ

駄文・乱文・残滓

信じることで救われる(宗教の話ではない)

「ついに見つけたんだ! この世界のルールを!」

「これでもう頭を悩ませることはないんだ!」

--外側の軸。はたまたそれは常識。

ルールに従って行動することは迷う必要がなくて、比較的楽だ。ルールというものがなくて、自由にしていいとされた途端、何をすればいいか戸惑ってしまう。「ここに1年間時間がある! さあ、好きなように時間を使ってごらん!」と言われても、普段と同じことか、普段の延長くらいでしか行動できない。

一人暮らしをして、自由に時間を使える、好きな料理を作って食べれる。あまりにも自由すぎて、何をすればいいのかわからなくなる。そして、ルールを求め始める。しかし、ルールは見つからない。ここから2通りに分かれる。1つは、ルールを求め続けること。もう1つは、ルールを自分で作り自ら従うこと。

私は前者だった。未だにルールを求め続けている。ルールさえ見つけてしまえば、そこから迷いなく歩み出せるが、見つからない限り、ふわふわと足元がおぼつかなくて、延々と迷っている。自律できていない人間だ。

後者は、自らを律して行動を制限できるために迷いが少ない。誰かから唐突に食事へ誘われても独自のルールにもとづいて決断できる。前者は誘われたら「誘われたから」という理由付けに則ってあっさりと付いて行く。

前者、後者のどちらもルールを探して行き着いた先だ。私たちは自由が最高なのだと考えがちだが、多すぎる選択肢は時間を浪費する。ヒックの法則(ソシオメディア | ヒックの法則)がまさにそれを表している。ほどよい制約・制限が私たちに決断を促してくれるのだ。

制約・制限がまさにルールだ。ルールを守っていれば、極端な失敗は引き起こさない。ルールさえ守って入れば、はみ出し者にならない。ルールはいろんな名前を持っている。法律、条例、常識、規則など様々である。

たとえばダイエットのルールがあったとする。「それさえ守れば痩せられる」という思いは、ルールを遵守した果ての報酬に目が向いているが、ルールを信じることが前提になっている。

常識と呼ばれるルールも、信じることで何か報酬を期待しているんじゃないんだろうか。変な人だと見られないようにとか、他人に迷惑をかけないようにだとか。例に挙げたのは、罰が与えられないようにだが、ルールを信じることが前提になっている。

常識から外れないこと(ルールを信じて守ること)を意識するとかなり行動が制限されるが、その分行動しやすくなっている面があるんじゃないだろうか。仲間の輪から外れないように、自分も同じものを購入することも。

ルールを自ら作って、自ら守る人間になりたい。