駄文をつらねるウェブログ

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なぜ褒めるのか

「褒めればいいと思ってんじゃねぇよ」 

そんな言葉が私の頭を過ぎった。

--賛辞に隠されたもの

28日にハロウィンパーティに参加した。そのとき羽目を外しすぎて記憶がすっかり失くなってしまった。あとで聞いた話では、人を絶えず褒めちぎっていたという。実害が生じる迷惑をかけていなかったようなので安心した。土下座までしていたらしいが、まったくもって後悔はしていない。

なぜ私が褒めるのか考えてみた。

褒めることで、彼・彼女が私の格上だと伝える。間接的に格下だと言っている。格下だから許してくれという免罪符にしているのではないか、と思い立った。相手は褒められて気持ちがいいはずだという思惑も少なからず含まれているのだろう。こういう風に改めて文章に書くとかなり胡散臭い野郎だと思われそうだ。

もっと言えば、褒めることで褒められたい。自分の欲求の裏返しなのかもしれない。褒める、謙遜する、褒め返す、謙遜する、褒めるという一連の流れを求めているのかもしれない。そのやりとりには、悲しいものが含まれない。わたしが思っているあなたの良いところをひたすらに言う。変な思惑さえも含まれない。それは本当に純粋にお互いが認め合うことなのかもしれない。きっと私は誰かと認め合いたいのだと思って褒めちぎっていたんじゃないかと。 しかし、このような様々な裏側があることを見つけた時点で、今後の行為というのはひどく不純な行為になりかねないけれども(はぁ)。

私には重大なコンプレックスがある。誰だってそうかもしれないが、誰かと比較して止まない。周りの人間の良いところはすべて吸収したいと思っているし、そうすることが理想であると信じている。この理想とのギャップが私をいつも苦しめる。

私ができないことを誰かができていると、なんでもかんでも悔しく思う。欲深い人間なのだ。業が深い。誰かができていることを認め、私ができないことを(自尊心のせいで)認めない。その自尊心という理性(防御壁)が吹き飛んだ結果、褒めちぎるという行為になったのだと思う。記憶がないが、おそらく私の発言はすべて本心。少し大げさな表現にはなっていたと思うが。

人には人それぞれ良い所があるというが、自分自身の良い所が見当たらない。きっと自分自身を客観視することができていないのだと思う。良い所を見つける前に、いつも私自身で私自身をいじめてばかりだ。「お前は何ができるのか?」と責め立てたり、「死ね」と独り言を吐き捨てるように言ったりしている。以前、性格診断をしたときに攻撃性の項目が1(最も少ない)だった。他人への攻撃性が非常に低い分、抑圧された加虐欲求が自らの内面に向いているのだとしたら、どうだろう。他人がどうなのかわからないけれども、私は自分をいじめすぎな気がしている。内側に攻撃すると、加虐と被虐の欲求が同時に満たされるのだろう。

しかし、そのような行為は苦痛でしかない。本当は認められたいのだ。いつか自分を認めてあげたい、「よしよし、よくがんばった」と小さい子の頭を撫でるように、慈愛に満ちた言葉をかけてあげたい。

私は私でしかないのだ、私は一生のパートナーだ。物心ついたときから一緒で、死ぬまで一緒。そんなパートナーを大切にできなくて、誰かを大切にすることなどできないはずだ。

他人を褒めるように、自分を褒めてあげたい。

「おまえはすごいよ」「すごくよくやってくれてる。 すごく助かっている」