駄文をつらねるウェブログ

駄文・乱文・残滓

コミュニケーションの不完全さ(寄りかかり)

「ああ、ぼくは青春を、青春の大切なものを、おいてきてしまったんだ」

「そう? それなら取り戻そうとは思わないわけ?」

ーー悲観への皮肉

なんということか。 コミュニケーションってのは第三項関係で成り立つという考えをここ数日考えていたけれど、話しかける行為というのは、相手に第三項(いわゆる天気の話、身体の話)を投げつける行為に思えてきた。「おい、俺はこの話をするから話に参加しろよ」と。「今日は天気がいいですね」なんて話しかけられたら、無視できる人はそういない。契合希求性にうったえている。なんで無視できないのだろう?と考えたらやはり人は独りで生きていけないということなんだろうか。あるいは、気まずさからの回避(儀礼的無関心からの焦点の定まった行為への転調)か。なんと恐ろしいことか。いわゆる第三項を会話のダシに使っているのだ。

会話のダシにされて気分が悪いと話を聞くことがある。日常的に考えてあまり気分のいいものではないだろう。「あいつさー、この前東京駅で現金すられてやんの!」とか「あいつ、ITベンチャーの社長と知り合いなんだって」と。言ってしまえば、共有されうる話題さえ存在すればなんでもいいわけです。なんでもいいという点が恐ろしい。それがたまたま事実という形で証明出来うるものだったという説明になれば、当然なわけです。共有されうる情報を集めていたら、たまたまそれが正しい(間違いがない)情報だったということです。

ここで私の頭のなかは、欲求の話に移りました。欲求については明日かけると思います。

神宮で思ったこと

実は今日昨日と、神宮を参りました。その中で思ったのは、不謹慎ながら、何がここまでこの領域を神聖化したのかとても気になりました。そこらへんにいるハエや虫たちにとってはほとんど影響がないからです。どんなに綺麗に整備されたところであっても森の中である以上、トイレに行けばハエはいますし、トンボは侵入禁止領域をゆうゆうと飛び回っていますし。私たちに課せられた制約を悠々と超えていけます。そこになんの違いがあるというのか。偶然が積み重なった挙句ここまで神聖化したんでしょうか。

こんなことを私は考えていますけれども、神宮がとても好きです。決して貶めるようなつもりはありません。

人間の文化的背景がその場所をそのようにしたんだと思いますが、不思議なものです。正直勉強足らずで神宮を訪れたのでだいぶ後悔しています。初めて訪れた内宮は16時ころでした(17時に閉門)。本当に荘厳な雰囲気で、生半可な気持ちで訪れていいのか躊躇するくらいでした。警備にあたっている人たちが普段見る警察と制服が異なっているのが不思議でした。

個人的には、外宮の亀と内宮の鯉がとても印象に残っています。