駄文をつらねるウェブログ

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N重のネガティブ

毎日のように文章を連ねていると、どれほど自分が浅はかだったか思い知ることになる。

あらゆる経験から逃避してきた身としては、ここで仇になったかと後悔する。

ネガティブというのは、物事をすべて後ろ向きに捉えて考えを巡らすことを指すと思う。「自分はネガティブなんでー」と悲観的に述べると、「いやいや慎重だってことじゃないですか」とフォローがかえってくる。

このやりとりそのものが様式美というか形式的なものだったりするわけだけれども(このやりとりで安心する、安心しようとする自分が存在する)、その一方でネガティブな発言をすることで、自分を自分で痛めつけることに飢えている。あるいは、ネガティブなことも考えられる人間ですとアピールしている。

自分を自分で痛めつけることに慣れ、それが快楽になると、負の循環は止まらない。自虐しているのだから外部からは触れてほしくないという防御体制だったり、自虐しているのだから自分は大丈夫、ここに存在できると安心感を得ることになる。

この考え方は何重にも巡らすことができる。つまり、上記のことを考えているから自分は大丈夫、と思ってしまう。

「ダメな自分とわかっている」から大丈夫。「ダメな自分とわかっている自分をダメだとわかっている」から大丈夫。という風に数珠つながりに延々と伸びていく。そしてそれが快楽になる。ここまで考えられている人は自分以外にいない、自分をここまで痛みつけている人は自分以外にはいないと。選民意識、他者への優越感を覚えるようになってくる。

ここまではいい、まだ大丈夫だと、個人的には思っている。何がダメか。このことを他人に述べてしまうことだ。

「わたしは、ネガティブなので」「わたしは頭が悪いので」「わたしは要領が悪いので」「こんなにわたしは考えている」という風な中途半端なアピールは聞きたくない。