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共依存性

Evernoteでは筆が進まなくても、ここにくると筆が進むのはなぜなんでしょうね。宛名性(Bahktin)と聞き手性(Goodwin)の効力を強く感じます。多声性も同時に言及したかったけど、よくわからなさすぎるのでスキップします*1

宛て名性と聞き手性は他者を予定していますが、それが自己の創りだした幻覚ではダメなんでしょうか? 端的に言えば、脳内彼女や脳内友達ではダメなんでしょうか? 自己の創りだした幻覚は他者にはなりえないのか? 疑問です。

もし、幻覚が他者になりえるのだとしたら、それをうまく利用すれば、他者がいなくても生きていけるんじゃないのでしょうか。

フィクションでよく聞く言葉として、「人は守るものがあると強い」があります。守るものが自分の創りだした幻覚・幻想・妄想であっても同じように強くなれるんでしょうか?

誰かのために何かしたいという欲求は、裏を返せば、あなたのためという大義名分を利用しているだけに過ぎないのではないでしょうか。あの人を守るために、私はしんがりを務めた。あの人を守るために、私は激怒した。もっと酷く言えば、「あの人を守っている私かっこいい」、「私はあの人を守っているから大丈夫。存在意義はある」。ひねくれた見方はここまで歪めます。

何かに夢中になれない、何をすればいいのかわからない。そういうときに寄りかかることができる「あなた」「守りたいもの」は、すがりつく対象となります。その対象は、守られているだけでなく、同時に守っている。見事な共依存です。

その共依存をやってのけたのが、NHKにようこそ!(小説版)でした。

あの小説のラストはとてもよかった。彼(主人公)と彼女(ヒロイン)は独りでは歩けなかったけども、二人なら歩いていけることを見つけたのだから。

共依存と聞いて、「うわっ」と気持ち悪さを感じた方もいるでしょう。でも、私たちが日常的に行っている行為はだいたい共依存性を備えていると思っています。先生と生徒の教える関係も単なる教授ではありません。生徒は教えられると同時に教えています。

新米教師が生徒たちと共に成長していくことを想像するとなんとなく理解できるでしょう。先輩と後輩の関係でも同様です。先輩が教えると同時に後輩から教えられています。

他者がいると他者に依存できます。その他者を妄想で補えたらどんなに良いことか。それが不可能だとしてもいつかその他者がコンピュータになるかもしれない。私はそう思います。

おまけ

「あなたを守るために、わたしが死ぬ。 きみのためなら、わたしは死ねる。」

嘘だった。本当は死ぬための口実として。いや、そうじゃない。あなたを救いたくて、わたしは死にたかった。

彼女がわたしのシャツの裾を強く引いた。彼女はうつむいていて、表情は髪の毛でみえない。

数秒の沈黙。

「あなたが死んだら……」

死んだらなんだと言うんだ。きみは救われるんだ。

「死ぬ。あ、あなたが死んだら、死ぬ。」

彼女は言い淀みながら繰り返す。

「あなたが死んだら、わたしも死ぬ」

あ。大切なことを忘れていた。

「じゃあ死ねないじゃないか」

彼女は掴んだわたしのシャツを離した。代わりに自分のシャツを握りしめるように強く握り、目を逸らしながら

「死なないでさ」

顔を上げて、わたしの目を苦しそうに見つめながら、今にも泣きそうな顔をして

「一緒に生きようよ、苦しいけど」

その言葉は、増殖するウイルスのように私の中に一気に広がった。頭の中で彼女のことばが反芻される。彼女のことばに満たされてしまったわたしのこころは嗚咽する。こころに呼応するように、顔がくしゃくしゃになる。鼻の奥のつんとした痛みに耐えながら、嗚咽を漏らすように声をだした。

「ありがとう」

*1:結局Bahktinのポリフォニーと同じなんでしょうか?