駄文をつらねるウェブログ

駄文・乱文・残滓

言葉の責任

「ことばってのは、刃だよ」

僕らは、制約をうまく使って生活している。重力っていう制約の元で僕らは地上を歩ける。言葉だって制約を作る。今語ることと語らないことを切り分ける。

言葉に惑わされる。不思議だろう。本当にそう思っていなくても発言できる。 「君が好き」「それ、面白いよね」「わかる、わかる」 なんて無責任な言葉なのだろう。だけど、実は言葉ってのはそういうものなのかもしれない。「あの映画おもしろかった」「そう?」「主人公が高台からジャンプするシーン最高だった」「私はそう思わないけどなぁ」 「そう?」に導かれ、「主人公が……」という発言が繰り出される。同時に「主人公が……」が「そう?」を会話を促すものとして定置させる。

実は「そう?」という言葉にはなんの意味もないのでないか。ただ聞きました、そういう応答にすぎないんじゃないか? 「そう?」が促す意味となったのは身体的な表示だったんじゃないか。こっちを見て、頷いて、どういうことって顔をして。そういう言語外がそういう作用をもたらしているんじゃないか。

ちょっと身体の話にそれた。「そう?」には続き促す意図はなかったかもしれない。でも、それを相手が解釈した結果、続きを話した。言葉ってのは無責任なのだろうか。反応が相手の解釈を引き出して、相手がしゃべる。自分にはそんな意図はなかった。自分の言葉に責任をもてなんて言うけれど、どこからどこまでが責任なのか。

この責任という脅迫にも近い問題は、いままで焦点があたらなかったことのような気がする。